本日も午前中にレッスンを受け、筋肉痛で太ももをぷるぷる震わせながら、午後の取材に備えて後片付けやらオーダーしておいたお花屋さんが到着したりで、身支度する前から汗だくでした。
片づけを始めたら、あーでもない、こーでもないとコーディネートのやり直し、いつまでやってんの!と一人ツッコミしていたら、ぴーんぽーん、と鳴り、取材の方々が到着なさいました。
シャワーを浴びる時間もなく、汗臭放ちながらインタビューに答える説得力なしの状況を、得意のウラノ節炸裂の弾丸トークで完全にこちらのペースに持っていくことができました。(の、はずですが。)
取材でもないと、滅多にオーダーしないフラワーアレンジメントを記録しておくことにします。
先週末に冷やかしに寄ったアクアガール代官山で、調子づいてMARNIのファーコート、オーダーしてしまいました・・・
相変わらずの買い物中毒ぶりを、「ブログ見たよ。また買ったでしょ!節約宣言、破ったよね!」、のご指摘を受けるべくご報告いたします。
さて、いろいろ衝撃的なニュースが駆け巡った一週間でしたが、当然書きたいことは山ほどあります。
その中でも「孤独死」という表現に、かなり敏感に反応した自分がいたので少しばかり書いてみます。
誰だって自分の死の状況を予測することは不可能に等しく、いくら家族、友人らに見守られて逝きたいと願ったところで、はたして思いどおりに行くかどうかは、やはり、期待薄と思っているほうが精神的に楽なのでは、と思っています。
この頃しみじみ思うのは、死の演出は想定通りにはいかないものなのかな、ということ。
ひとりで暮らしていくことを決心した人たちは、それなりの覚悟を持って生きているはずだし、たとえ家族と暮らしている人たちだって、逝くときはひとり、の認識を持っているはずで、少なくとも私の周りの友人たちはほとんどが、そうです。
確かに、自分の身の上に緊急事態が発生し、誰もいない自宅で倒れてそのまま意識が遠のいていく、といったことを想像するだに恐ろしいが、それでもそれはそれで仕方がないことかなと、その状況をシュミレーションして心の準備をしているこの頃なのです。
誰もそばにいないところで旅立つとき、それを人は「孤独な死」と言う。
はたして、そうなのかな?
旅立つ人は孤独を感じてなんかいないんじゃないのかな?
残された人の喪失感が、死を孤独と感じているだけなんじゃないのかな?
生意気ですが、そんなふうに感じたんです。
ひとつ気になるところと言えば、私の数々の高価な戦利品は誰の手元に渡るのか、ということ。
財産なんかないけれど、私が愛した身の回りの品々を、そろそろ誰に譲渡するかを書いておこう、などと、孤独死の先を考えてみました。
オーダーしたファーコートの行き先を想像していると、本当に私が好きな人は誰なのかがわかるのです。
そして、意外と友達って少ないことに気づくのです。