ヒトラー総統やゲッペルス宣伝大臣がリアルに似ていて驚いたが、そこまでやる?やっていいの?と人事ながら心配になったりして。。。
外国人の方が多く、話す言語でその人たちはドイツ人とわかったが、どんな気持ちで観ていたのかインタビューしたくもあった。
もし、戦時中の日本がタランティーノによって、タランティーノ的残酷でコミカルに描かれていたら、日本人は笑って観ていられただろうか?
大笑いしているのは外国の人たちだけで、こんなブラックジョーク満載の映画は、やはり日本人には理解できないのかもしれないな、と感じたり。。。それでも「ウッソー!」、と大きな声で笑った私は規格外の日本人ということなのか。いや、日本のことじゃなくてよかったと安堵の笑いだったのかもしれない。
「ウラノさん、19日、高松に行きませんか?」
行く予定だった人が急に行けなくなったから、是非一緒に行ってほしい、と二日前になって連絡が入った。
急なスケジュール調整はかなり難しいかと思っていたが、意外なことにすんなり調整できさっさとチケットを予約している私がいた。むしろ、行かなくては!と強い信念にも似た感情が沸いてきたのが自分でも不思議だった。
実際、高松のどこに、何のために、誰に会いに行くのか、聞いてはいなかった。
着いたそこは小さな神社だった。
お経が響き渡る中、護摩を焚いていただいていると、
吹きさらしで冷えきった身体なのにもかかわらず指先から熱を発しているかのような感じがし、肩の痛みがなくなって、寝不足のぼんやりした目がかっと大きく開いた(ような気がした)。
隣に座った(いわゆるあれが)見える彼女は、「いっぱい、大勢、登っていきましたね。」
曇り空が急に明るくなり、
その人に、「今日ここに来れて強運ですね。」と言われた言葉が身に沁みた。
今の世に、日本人として、女の姿で生まれたことに何か意味を探すのはやめて、ただここに在ることを、ここに居ることを受け入れることが自分を愛するということなのかな、とふいに理解した。
ゲッペルスの存在を知り宣伝に興味を持ち始めたあの頃は、もう遠い昔になった。