足しげく通う六本木華園のキュウさんから、「ウラノちゃんに見て欲しい絵があるのよ~。」と、お電話を頂戴したのは去年の暮れだった。
年末は慌しくしていたから、だけが理由じゃなく、なぜか行くタイミングを逃していたのだが、殿のインテリアコーディネートに付き合っていた4月30日、本当に、なぜか、急に、華園に行きたくなった。
絵を探している殿と絵を見て欲しいキュウさんを、無意識につなげていたのだろう。
それでも華園が初めての殿に気を遣い、絵のことには触れずにいたのだが、今度行ったときに見せてください、と言ってた手前、絵を見ないで帰るのも失礼かと思い、帰りがけに何気なく、見て欲しい絵ってどなたの作品ですか?と尋ねたところ、今日到着したばかりの絵があるの、見てくれる?
と、箱から取り出され、イスに立てかけられたその絵を見て、絶句した。
そして、鳥肌がざわざわと立ち、瞬間的に、この作者にすぐに会いたい、と叫んでいた。
いや~、伊豆大島に住んでらっしゃるのよ~、来れるかな?ううん、でも、電話して聞いてみるわね、の言葉が終わらないうちに電話なさるキュウさんは、共に丑年生まれの猪突猛進系な似た者同士のねーさんである。
電話のすぐ横で興奮している私の声が届いたのだろう、連休明けに来てくださることになった。
5月7日、その方は現れた。
納富 慎介さん (Shinsuke Notomi)
1942年上海生まれの現在68歳の納富さんは、いわゆる日本のおじさん臭がまったくなく、ダンディで品のよい佇まいの素敵な方だった。
聞けば、1962年から渡米され、ニューヨークのArt Student Leagueで学び、その後サンフランシスコのCalifornia College of Arts & Craftsで学士(B.A)と美術修士(M.F.A)を取得。
1972年~1974年 インディアナ州立大学で美術教師となり、その後南米インカ芸術研究のためペルー、ボリビアへと旅立つ。
1975年に帰国し、多岐にわたり活動をなさっている・・・
私の開けっぴろげな態度に心を許してくださったのか、納富さんの過去を話してくださったのだが、その話があまりにもすごくて、ここで書いていいのかどうか迷っていたが、書く。
慶應高校を二度も(ご本人いわく)放校されるほどの不良だった納富少年17歳は、龍馬伝にも出てくるあの岩崎弥太郎直系のご令嬢で、当時家庭持ちの14歳年上の女性と駆け落ちなさったのだった!
日本にいることが許されないからこその渡米であり、入るのが簡単だからという理由で美術大学に入学したと言うのだ。
お亡くなりになった奥様の遺産を使い果たしての、今、なのだった。
財閥のご令嬢と駆け落ちした高校生、それが納富慎介という男だ。
作品の説明をしてくださるが、もはや、それより納富さんの人生そのものに関心が移ってしまった。
インディアナ州立大学で教師をなさっていた頃、ピカソの亡くなったその日に、黒いキャンバスをピカソに対するレクイエムとして上空に掲げたことも、納富さんご自身の歴史のほんの一瞬でしかないように思えた。
今、ここに生きている納富さんご自身が、アートなのだった。
私は、この人を、世に知らしめたい!
是非プロデュースさせて欲しい、と伝えたら、優しい笑顔で、よろしくお願いします、とおっしゃる。
僕のことを応援してくれるアートに詳しい女性がいるので、今度紹介しますよ。伊東深水の孫なんですけどね。
ええええ?伊東深水の孫???朝丘雪路が叔母さん???
もう、私は、自分が立っているこの場所が、よくわからなくなっている。
華園のご夫妻も、「お店にはたくさんの人が来てくださるけど、なぜかウラノちゃんにだけは何でも話せるのよね~」、などと、とんでもないことをおっしゃるし、私のオーラは一体どんなことになっているのか、サイキックな力のある人に見てもらいたいほどだ。
私が言えることは、ただひとつ。
アートに、魂が反応している。
魂が、喜んでいる。
そのことだけだ。
これからどうやって、納富慎介を世に紹介するかの話し合いは、深夜まで続いた。
ジャズを聴きながら、今だからこそ、本物の、大人の、男の、カッコイイ、いや、半端ないダメ男っぷりを、見て欲しいと思う。
本能のおもむくまま生きる男に、(強い)女は弱いものなのだ。
弱い女って、存在しないのだから。